PEOPLE
「日本人として、世界に対して誇りを持って発信できる世界遺産」〜内閣官房・有識者会議の流れを決したジャーナリストの視点〜

ジャーナリスト、「下村満子の生き方塾」塾長
慶應義塾大学経済学部卒。ニューヨーク大学大学院修士課程修了(経済学専攻)。
1965年に朝日新聞社入社後、「週刊朝日」記者、朝日新聞ニューヨーク特派員、朝日新聞編集委員、「朝日ジャーナル」編集長などを歴任。
その間、中近東、アメリカ、ヨーロッパ、中国、旧ソ連等に特派され、数々のスクープ、内外のビッグのインタビュー、世界各国のルポルタージュなどに取り組み、次々発表、1982年ボーン上田国際記者賞を女性で初めて受賞。1987年日本翻訳出版文化賞受賞。
同年、ハーバード大学ニーマン特別研究員に招聘され、ジャーナリズムの研究を深め、1994年フリーのジャーナリストに。
同時に両親の事業を引き継ぎ、財団法人東京顕微鏡院理事長に就任、続いて医療法人社団「こころとからだの元氣プラザ」を設立、理事長に。経済同友会副代表幹事、福島県男女共生センター「女と男の未来館」館長、㈱ルネサンス社外取締役など数々の役職を歴任。
2002年、ジェンダーに着目した女性医療の分野での貢献が認められ、米国コロンビア大学医学部からアテナ国際賞を授与される。
東日本大震災・原発事故直後に、福島で「下村満子の生き方塾」と、京セラの創業者で現名誉会長でもある稲盛和夫氏の主宰する経営塾「盛和塾福島」を立ち上げ、「日本人の心の再生」に取り組む活動を行う他、毎年いわき市で「福島を忘れない!祈りの集い」も主催してきた。
現在、「下村満子の生き方塾」塾長、㈱ヒューマンプラザ代表取締役社長、JAL財団評議員、(公財)資生堂社会福祉事業財団評議員、(医)花椿会理事、(一社)チームスマイル理事、東日本高速道路㈱コンプライアンス委員会委員、ボーン上田記念国際記者賞選考委員、(一財)舞台芸術センター評議員、(公財)文字・活字文化推進機構評議員、盛和塾理事他、役職多数。
著書に「MADE IN JAPAN(盛田昭夫とソニー)」(PHP)、「いのちとは何か、生きるとは何か」(KKロングセラーズ)、「財界人トップインタビュー 減速経済を生きる」(朝日新聞社)、「世界の大経営者たち」(朝日新聞社)、「アメリカの男たちは、いま」(朝日新聞社)、「下村満子の大好奇心」(朝日新聞社)、「ハーバード・メモリーズ」(PHP)他、訳書に「すぐ忘れる男 決して忘れない女」(朝日新聞出版)他多数
ジャーナリストの下村満子さんは「明治日本の産業革命遺産」のユネスコ世界遺産登録を強力に後押しした“陰の立て役者”のおひとりだという。産業遺産国民会議の加藤康子専務理事は「世界遺産登録までの長い道のりの節目節目で流れを作り、私たちを励まし、バックアップしてくださった大恩人」と語る。どんなことがあったのか。加藤専務理事も同席して、下村さんに「明治日本の産業革命遺産」とのこれまでの関わりについて、お話をうかがった。
■世界遺産に値すると考えた「三つの理由」
--加藤康子さんは常々、「明治日本の産業革命遺産の登録実現への流れを作ったのは下村満子先生だった」と語っています。具体的にはどのようなことがあったのでしょうか。
下村: 私は別に何にもしてないですよ(笑)。
加藤: いえいえ、2012年に、内閣官房では有識者会議(「稼働資産を含む産業遺産に関する有識者会議」)を設け、「明治日本の産業革命遺産」をユネスコに推薦する審議を進めていました。その2013年の委員会の場で下村先生のご発言が、登録への流れを作ったんですよ。
下村: あぁ、あの時のことね。有識者会議の最後の日(2013年8月27日)、いよいよ次のユネスコの委員会に向けて、日本政府としてどこを推薦するかを決める締めくくりのとても大切な会議でした。会議が終わりの時間に近づいても、意見がなかなかまとまらない。実は私、それまで有識者会議に参加していても、ほとんど発言していませんでした。多数のこの分野の専門家がいらっしゃる中で、私はむしろ皆様のお話から沢山勉強させていただいており、私の如き専門家でないものが発言する資格はないと、質問はしても意見は差し控えていました。でも、最後の会議の終了時間が刻々と迫っているのに、相変わらず何度も繰り返した堂々巡りの議論が続いている。私は、次の予定が入っていて、終了時間にはその場を出なければならない。正直、少々イライラしていました。そこで、一言発言させていただいたんですよ。そのことね?
加藤: そうです。あの時の先生のご発言で、空気がガラッと変わったんです(笑)。あの当時、内閣官房が「明治日本の産業革命遺産」と、文化審議会「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」(当時の名称、現在は構成資産を再検討して「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」に改称)のどちらを先に推薦するか、意見が真っ二つに割れていました。そのため、内閣官房の有識者会議が、「明治日本の産業革命遺産」を、委員の総意で推薦をいただく必要がありました。ただ、当初は全員一致とまではいかず、文化審議会とは異なる推薦案件を推薦するのかどうかで、有識者会議においても議論が紛糾して異論反論オブジェクションが沢山出ていました。
下村: そうそう。それで、私はこんなことを申し上げました。「もう会議終了まで5分しかありません。今日は結論を出す日ということで、私は先ほどから、いつ採決するのか待っていましたが、まだ大所高所ではなく、細かい専門家の議論や以前話合った繰り返しの議論が続いています。これまで専門家の方々のお話を聞いて勉強させていただき、私自身の中では、もう結論が出ています。この有識者会議に参加させていただきながら、一度も意見を言わずにこの場を去るのは無責任だと思い、一言発言させていただきます。
私は専門家ではありませんが、一人のジャーナリストとして、また、一人の日本人として発言させていただきます。今、結論を出すに当たって一番大切なことは、細かい専門家のテクニカルな議論ではないと思います。日本人が、明治の産業遺産を、世界に対して誇りを持って発信したいと思うかどうか。これに尽きます」。そう言ってから、「私は、明治日本の産業革命遺産の推薦に賛成です」って申し上げたんです。
その理由は、第一に、幕末から明治にかけてのごく短期間で日本が自力で近代化を成し遂げたことが、アジアをはじめとする発展途上国に大きな勇気を与えた、そして今後も与え続けるだろう、その世界史的意義。第二に、日本自身にとっては、単に明治期の近代化という意味だけでなく、戦後の焼け野原から奇跡の経済復興を遂げ、世界第二位の経済大国にまでなったそのルーツとベースは、この明治の産業革命にある。明治の産業革命と戦後の経済復興はつながっているのです。
最後にもう一つ、こう言いました。「この歴史遺産は、一つのストーリーで構成されたもので、世界遺産としては一つと数えられますが、23の資産で構成されている。つまり、一つの世界遺産登録で、九州を中心にして全国各地に、一気に23の世界遺産が誕生するに等しいことになる。そのインパクトは非常に大きい。それぞれの地域の振興に、とても大きなメリットがあると思う。こんなに結構な話はないじゃないですか」と。最後に、こんな大演説をぶったんですよ(笑)。
今までおとなしくしていた私が、正直、毎回言いたくてウズウズしていたけど我慢していたことで、これは私の正直な気持ちでした。最後の会議だから、これを言わずして席を立つわけにはいかない!と思ったのです。
前、佐野常民記念館(現、佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館)館長
軍艦島コンシェルジュ取締役統括マネージャー
軍艦島デジタルミュージアムプロデユーサー
世界遺産コンサルタント
明治日本の産業革命遺産世界遺産ルート推進協議会会長
一般財団法人産業遺産国民会議理事
(九州旅客鉄道株式会社 相談役)
一般財団法人産業遺産国民会議 代表理事
(公益財団法人資本市場振興財団 顧問)
ヘリテージ・モントリオール政策部長
ヘリテージ保全並びに世界遺産の専門家としてグローバルに活躍する国際コンサルタント
The Glasgow School of Art’s School of Simulation and Visualization、データ・アクイジション責任者