PEOPLE
近代化を切り拓いた長州ファイブと試行錯誤の痕跡を残す萩の資産
萩市長
生年月日 1944年(昭和19年)7月29日
最終学歴 京都大学経済学部経済学科卒業
(1967年・昭和42年3月)
略 歴
大蔵省入省 主計局調査課 (1967年・昭和42年4月)
鳥取税務署長 (1972年・昭和47年7月)
ハーバード大学ロースクール留学(1975年・昭和50年9月)
主計局主計官補佐 (1979年・昭和54年7月)
大臣官房企画官 (1981年・昭和56年7月)
大阪国税局査察部長 (1983年・昭和58年6月)
主税局税制第3課長 (1987年・昭和62年8月)
主税局税制第2課長 (1989年・平成元年6月)
国税庁長官官房総務課長 (1990年・平成2年6月)
福岡国税局長 (1991年・平成3年6月)
国税庁調査査察部長 (1992年・平成4年6月)
萩市長(1993年・平成5年10月18日~平成17年3月5日)3期
現 職
萩市長(2005年・平成17年3月27日~) 3期目
※平成17年3月6日、7市町村による合併 新市発足
全国伝統的建造物群保存地区協議会会長
(1993年・平成5年10月18日~)
全国中山間地域振興対策協議会会長
(2010年・平成22年6月7日~)
全国街道交流会議 街道交流首長会会長
(2011年・平成23年6月7日~)
全国市長会相談役
(2011年・平成23年6月8日~)
全国離島振興協議会理事
(1996年・平成8年4月1日~)
全国漁港漁場協会副会長理事
(2009年・平成21年5月30日~)
全国山村振興連盟山口県支部長
(2008年・平成20年3月21日~)
全国防災協会理事
(2006年・平成18年6月16日~)
全国治水砂防協会評議員
(2006年・平成18年2月28日~)
(但し、2009年・平成21年6月1日~2011年・平成23年5月31日の間は理事)
山口県後期高齢者医療広域連合連合長
(2007年・平成19年2月14日~)
山口県漁港漁場協会会長
(2000年・平成12年8月25日~)
山口県離島振興協議会会長
(1997年・平成9年4月1日~)
山口県史跡整備市町協議会会長
(2003年・平成15年7月30日~)
山口県過疎地域対策促進協議会会長
(2008年・平成20年3月21日~)
等
――「明治日本の産業革命遺産」の23の構成資産の中で、萩には5つの資産があります。
産業革命の初期段階、試行錯誤の時代を示しているのが萩の資産です。吉田松陰は、欧米列強の強圧的なアジア政策に対峙し、日本の独立を守るためには強大な工業力を身につけなければならないと考えました。これが松下村塾の最大のテーマであり、「松下村塾から日本の近代化が始まった」と言われる所以です。欧米列強と日本との、天と地ほどの技術力の差を埋めるために、松陰自らアメリカに渡って実情を学ぼうとしますが、果たせませんでした。そこで松陰は門下生と共に海外情報を学び、欧米の技術の導入の必要性を説きます。松陰が亡くなった4年後、門下生の伊藤博文はじめ松陰の考え方に影響を受けた井上馨、遠藤謹助、山尾庸三、井上勝の5人の長州藩士が、松陰の遺志を継ぎ、国禁を犯すという大きなリスクを背負って長州藩から英国に密航留学し、UCL(ユニバーシティ・カレッジ・ロンドン)などに学びました。横浜港からの出航は、1863(文久3)年5月12日 、馬関攘夷戦争開始からわずか2日後のことです。
――井上馨は外交、遠藤謹助は造幣、山尾庸三は工学、伊藤博文は憲法制定・議会政治・政党内閣、そして井上勝は鉄道の「父」と言われています。
工学の父といわれる山尾庸三は工部大学校の建学に貢献しました。UCLで学んだ後、産業革命発祥の地であり造船業が盛んなスコットランドのグラスゴーのことを知り、グラスゴーへ渡り技術を学びたいと願います。しかし、長州藩からの留学資金は底をつき、行くためのお金がありませんでした。その山尾庸三を助けたのが、薩摩スチューデント達だったのです。
――長州ファイブ渡欧から1年半後の1865(元治2)年4月、薩摩藩からイギリスへ送られた19人の留学生で、初代文部大臣の森有礼や、大阪の経済発展に貢献した五代友厚などもいました。
庸三達は彼らと親交を結んでいました。そこで、薩摩藩の彼らは庸三のために、一人1ポンドずつカンパし、16ポンドを庸三に渡します。薩長同盟以前に、長州と薩摩の交流は、このような形で行われていたのです。庸三は、昼間はネピア造船所で働き、アンダーソンカレッジ(夜学)に通います。不思議な出会いですが、工部大学校の初代都検(校長)の技師ヘンリー・ダイアーも、実は同じ時期に同じカレッジで学んでいたことが分かりました。ダイアーは9年間日本人教育に力を注ぎます。その工部大学校が後になり、東京大学の工学部へと変わります。
山尾庸三は、帰国後に、工部卿となり、伊藤博文や井上馨もいろいろな形で支援しました。今世界には、マサチューセッツ工科大学など有名な工科大学もありますが、当時、発足したばかりで、世界の大学の潮流はサイエンスが中心で、エンジニアリングの分野はその下に位置づけられるのが通例でした。しかし、日本の大学は、サイエンスと工学部が同じように位置づけられていたのです。これは、松陰が門下生に工学教育の重要性を説いた松下村塾の1つの大きな影響力といえると思います。
フジサンケイグループ 代表
株式会社フジ・メディア・ホールディングス取締役相談役
株式会社フジテレビジョン 取締役相談役
日本港湾空港建設協会連合会 顧問(元、一般財団法人 港湾空港総合技術センター理事長)
前、佐野常民記念館(現、佐野常民と三重津海軍所跡の歴史館)館長
軍艦島コンシェルジュ取締役統括マネージャー
軍艦島デジタルミュージアムプロデユーサー
世界遺産コンサルタント
明治日本の産業革命遺産世界遺産ルート推進協議会会長
一般財団法人産業遺産国民会議理事
(九州旅客鉄道株式会社 相談役)
一般財団法人産業遺産国民会議 代表理事
(公益財団法人資本市場振興財団 顧問)
ヘリテージ・モントリオール政策部長
ヘリテージ保全並びに世界遺産の専門家としてグローバルに活躍する国際コンサルタント
The Glasgow School of Art’s School of Simulation and Visualization、データ・アクイジション責任者