明治日本の産業革命遺産は偉大な教材、覗けば見えてくる様々な世界
元新日本製鐵株式会社社員、世界遺産登録推進室産業プロジェクトチームメンバー
詳しくお話しいただけますでしょうか。
「鉄は国家なり」という言葉の由来はプロイセンのビスマルク首相が1862年議会下院予算委員会においてドイツ統一に向け、「国家は鉄と血によって贖われる。議会で議論を繰り返しても何も生まれない。血と鉄すなわち武力によって統一は実現する」と説いた鉄血演説に由来するといわれています。この言葉から鉄=武力=軍事=国家とイメージされてしまいますが、国家の近代化、あるいは近代国家の成立と鉄の製造技術およびその製品の進歩とは密接に絡み合っています。
18世紀末、英国において錬鉄(パドル鉄)が登場します。錬鉄は機械製作や建築・土木の建設に画期をもたらし、産業革命の原動力となりました。こうして英国は18世紀末から19世紀の過半、大帝国として繁栄を極めました。19世紀後半になると転炉法や平炉法が開発され、溶鋼の時代を迎えます。溶鋼は均質な鋼の大量生産を実現しました。転炉法は英国人ベッセマーによって1856年に発明されました。当時の転炉は鉄道レールの製造に適していて、また米国にはベッセマー転炉による溶鋼製造に適した鉄鉱石が豊富にありました。西部開拓のこの時代、ベッセマー転炉は大陸横断鉄道建設に必要な大量のレールを供給、ついにはフロンティアをなくし、広大な米国に国家としての一体性が生まれることに大きく寄与しました。
1877年、英国人G. トーマスが塩基性の転炉・平炉の製造に成功します。これにより、製鋼工程での燐分除去が可能となり、ベルギー、ルクセンブルク、独仏国境地帯(ルール・ザール)の豊富な鉄鉱石(ミネット鉱)を使って溶鋼を大量生産することができるようになりました。溶鋼生産量においてドイツはたちまち英国をキャッチアップして優位にたちます。溶鋼で造られた鋼材は錬鉄製に比べ機械的性質・耐久性に富み、鉄道敷設距離1キロの鉄使用料を半減させました。鉄道網に代表される物流の充実は何よりも国家に一体性を与えるとともに市場規模の拡大をもたらし、国家経済のスパイラル的拡大をもたらします。この効果を享受したのが、欧州では新興ドイツであり、ベルギーでした。この塩基性の転炉・平炉の出現は技術的には改良レベルの出来事だったかもしれませんが、欧州世界の勢力図を変えたという意味ではシュムペーターの定義するイノベーションの教科書的事例と言っても過言ではないでしょう。塩基性の転炉や平炉の開発で燐分除去が可能になった結果、錬鉄は鎖やリベット等の材料に限定され表舞台から退場を余儀なくされました。
製鉄・製鋼には石炭を必要とし、鉄道や船舶輸送にはその製作とインフラ整備に鋼材を必要とし、輸送の際には大量の石炭を消費し、石炭採掘には鋼材や船舶鉄道の輸送網の整備が必要と、こうした産業の連関は補完関係にあり、その補完関係を造ることが国家の近代化が実現する条件だったいえます。
国家の近代化と製鉄・製鋼の進歩、鉄道・船舶等の物流、石炭採掘は切り離して考えられないのですね。
製鉄・製鋼の進んだ欧米から遠く離れた日本では「鉄は国家なり」という言葉はまた別の意味を含んでいると私は考えています。日本では官営釜石製鉄所において錬鉄とその製品の製造をめざし、官営八幡製鐵所において溶鋼とその製品である鋼材の製造をめざしました。欧米諸国では製鉄・製鋼事業の蓄積がありますので、鋼材を製造するに必要な製鉄、製鋼、圧延の三つのステップを分解して工程ごとの事業化が可能であったのに対し、後進国であった日本では高炉による銑鉄製造、転炉・平炉による溶鋼製造、用途別鋼材を製造する各種圧延工場を一挙にそろえないと最終目的である鋼材の製造が果たせませんでした。このためには巨額の資金と人材の育成、さらにはリスクテイクが必要となり、民間レベルでの事業化はとても無理でした。
また当初鉄鉱石は国内で全てを調達する方針でしたが、結果的には中国湖北省の大冶(だいや)鉄鉱石を主要鉱石とすることになって行きました。湖北省政府との交渉、鉱石採掘のための資金供与、中国鉄鉱石の欧米資本の利用阻止など、外務省・大蔵省の全面的なバックアップを必要とし、製鉄所を建設するだけでなく、その操業をすることにもまた政府の機能を活用しなければなりませんでした。少し具体的なお話を申し上げますと、官営八幡製鐵所は当初、原料を新潟県の赤谷と岩手県の釜石の鉄鉱石で賄う予定でしたが、中国側から武漢の近くの長江下流の大冶鉄山の鉱石を買わないか、替わりに日本の石炭が欲しいという提案がありました。その話に小村寿太郎の懐刀と言われ上海領事であった小田切万寿之助が敏感に反応します。ちょうどその時にドイツの専門誌に同国の鉱山技師が、「中国の大冶に大量の鉄鉱石がある。この鉄鉱石を使ってドイツ資本の製鉄所を作るべき。東洋のマーケットを押さえるために、今こそ中国に金を投じて上海あたりに製鉄所を作るのがいいだろう」と寄稿していました。これを知った日本は、そんなことをされたら今造ろうとしている官営製鉄所計画が吹っ飛んでしまうので大治の鉄鉱石を確保しようという話になります。小田切領事の機敏な働きにより明治32年(1899年)に大冶鉄鉱石購入契約が結ばれました。この契約には、清国側は清国内における外国資本の製鉄所には大冶鉱石を販売しないという極めて重要な項目が含まれています。
製鉄業というのは国家をあげて行わなければ動かなかったのですね。
ええ。官営八幡製鐵所は農商務省に属しているわけですが、他の国家機関との関わり合いについて、例えば海軍工廠との役割分担などについての歴史研究はかなりされているのですが、他の省庁と官営八幡製鐵所との関わり合いについては、私の知る限りあまり突っ込んだ調査は行われていないのではと思います。海軍、陸軍、鉄道、内務、大蔵、文部省は大きな需要家ですし、資金面では大蔵省、海外の原料調達や鉄鋼事情の把握等については外務省等の全面的なバックアップを受けていましたが、その詳細について詳しい研究はないのではと思います。
現代人が歴史から学ぶこともありそうですが。
たとえばCO2の問題。周知のようにCO2の問題で鉄鋼業危うしと言われているわけです。先日も新聞に日本製鐵が技術改革を導入し、2030年には二酸化炭素排出量を30パーセント削減、2050年のカーボンニュートラルを目指すという記事が出ていました。高炉法以前の製鉄法は鉄鉱石を固体のまま還元する方法で、二酸化炭素を排出しますが、原理的に排出規模はかなり小さかったと思います。この古代製鉄法の原理は直接還元法として現代でも小規模の製鉄には使われていて、その高度化が可能なものか今注目されています。実は製鉄・製鋼法の歴史をたどると数々の試行錯誤の歴史であることがわかります。
ある意味死屍累々といった感もあるのですが、その中からよみがえってくるものもあるのではと少し期待しています。またオオカミの遠吠えと言われそうですが、「宇宙の歴史と鉄元素の誕生」、「地球の生命体と鉄」、「磁性体としての鉄と現代文明」といった観点も踏まえたCO2削減議論もあるべきだと考えています。
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