高島炭坑は西彼杵海底炭田の一部で、長崎港の沖合 14.5kmに位置し、1869年に操業を開始した。高島の坑口の一つである北渓井坑は、グラバーと佐賀藩の共同事業として開発された。グラバーは、日本で初めて蒸気機関を石炭産業に導入し、イギリス人技師を雇い入れて竪坑を掘り、着炭に成功した。グラバーは過剰な設備投資により経営難に陥り、後藤象二郎に権利を譲った。後藤もまた経営難に陥り、1881年、権利を福沢諭吉の仲介で岩崎彌太郎に譲渡した。岩崎は、グラバーと外国人技術者を再雇用し、生産技術の近代化を図りつつ、経営改革に着手した。高島の出炭量は伸び悩んだが、三菱の傘下で経営は安定し、軌道にのった。
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高島炭坑