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明治日本の産業革命遺産
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揺籃期 ものづくりの心と志

侍(さむらい)の科学への挑戦は1840年からの阿片戦争に遡る。この戦争で師と仰ぐ東洋の大国清がヨーロッパの島国に負けた衝撃から始まった。「煙をあげて走る蒸気船と遠くからでも撃てる大砲を持っている。中国でも勝てない相手なら日本はひとたまりもない」。鎖国政策の下、遠洋に出る大型船や武器の製造は厳しく監視されていた。わが国には日本古来のたたらによる優れた鉄づくりの技術があったが、たたら銑は大砲の製造には不向きだった。
「清の轍は踏まぬ」沖合に度々出没する外国船に海防の危機感を強めた。欧米列強の海軍力による植民地化を恐れ、長崎の出島に西洋の軍事技術の情報を求めた。それが侍と科学の出逢いだった。

旧集成館 古写真

アメリカ合衆国東インド艦隊江戸湾侵入(1853年)に呼応し、徳川幕府は開国の方針に改め鎖国令(1639年~1854年)を撤廃し、海防政策として直ちに大船建造の禁を解き(1853年)、海軍創設を計画した。

幕府は、西洋の知識を吸収し、防衛体制を整えるため、長崎の地に海軍伝習所と長崎鎔鉄所の建設を企画した。長崎以外には横須賀と浦賀に造船技術の拠点を構えることにした。 建設にあたり、長崎の出島を西洋文明の窓として、蘭書を通じ、西洋科学を受容してきた事から、オランダ政府に講師派遣を要請。オランダ政府は1857年9月海軍将校リッダ・ハイセン・ファン・カッティンディッケ、機関将校ハ―・ハルデス一行(37名)をヤッパン号(後の咸臨丸)で派遣。オランダ海軍機関将校ハルデス(1815-1871)は、長崎港西岸の黄金島から海岸へかけ、かなり広い平坦な土地で、湾の深い入江に接している、大きな船も岸に密着して着けることができる浦上村淵飽の浦郷に長崎鎔鉄所の工場用地を選び、三菱重工業長崎造船所の前身、長崎鎔鉄所(1860年に長崎製鉄所と改称)が誕生した。1857年、長崎在勤の奉行、オランダ人造営師、その他通辞が立ち会い鍬入れをし、1861年に落成をした。開国後7年の月日が経っていた。飽の浦に創設された長崎製鉄所は19世紀、わが国初の本格的な洋式舶用機械修理工場で、蒸気船の燃料炭の供給基地でもあった。大船禁止令撤廃と相まって、幕府は開国と共に膨れ上がる海運需要と修理の需要に応え、雄藩に対し艦船の建造を慫慂。この機運に乗じ各藩は競って外国より近代工業知識の吸収に努めた。

志は海を渡った

長州ファイブの写真

1863年「生きた器械になる」という決意で、国禁を犯し、命を賭してロンドンへ渡った長州五傑と呼ばれる長州の5人の青年(伊藤博文、山尾庸三、井上馨、井上勝、遠藤謹助)がいた。 帰国の途につくと、長州五傑は、欧米列強の植民地支配から日本を守るため、産業経済を基盤とした新しい国づくりを決意した。
明治新政府において、伊藤博文は総理大臣に、井上馨は外務大臣、井上勝は鉄道庁長官、遠藤謹助は造幣局長となった。 山尾庸三は工部卿となり日本の工学教育に貢献した。 長州五傑は明治政府の中枢において明治日本の産業革命を主導した。